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織田作之助 [文学]

故・藤本義一さんが1986年から1989年にかけて中央公論社から出版した長編4部作『わが織田作・
蛍の宿、蛍の宴、蛍の街、蛍の死」が4冊が揃ったのでまた読み始めた。
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1、2の二冊は前からあったので読んでいたが4部作とは亡くなられてのち、統紀子夫人に聞いてはじめて知った。
 3は次女の芽子さんから4は心斎橋大学で氏の薫陶を受けた藤田恵子さんが探してくれた。
 もう忘れていたが1集の蛍の宿を開いたところに署名をいただいていたのを見ておどろいた。
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 1年後出たの2集にはない。どこでどうしてもらったか記憶にはない。
 愛用の万年筆だから本屋のサイン会ではないことは確かだ。
 今年は織田作之助の生誕100年、師の川島雄三監督も戦後の無頼派だったこともあって井原西鶴とともに読むことを奨められ、酒の肴にふたりでよくはなしをしたそうだ。
 わたしも存命中は藤本さんから西鶴と織田作の話をよく聞いた。
 2、3集の表紙の絵は藤本さんそっくりで、そういえば氏は織田作に似ていたのかなと今になっておもう。
 実は、数年前からはじめて小説を書こうと思ってマスを埋め始めていた。
 タイトルは『織田作ブルース」で、主人公は瓢一にしようかと思っていた。
 書きはじめでさんざん悩んだ。精華小学校からかワッハ上方からか織田作賞授賞式からか・・・
 というのは織田作の作品には大阪ミナミの風景が多く出てくる。
 そのいくつかはわたしが通学し、遊んだエリアでたいへん懐かしい。
 大劇地下の『スポーツヤード」の将棋コーナーなど彼も将棋を指しにいっていたし、その横の
 ミルクホールの『花屋」などもでてくる。
 織田作に会っていたかもわがミナミ   こんな思いの句もつくった
 あらすじを藤本さんに話そうと思いながらできなかった。
 さあどうしようか、悩んでいる。

 

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蟻君忌 [文学]

故藤本義一さんのお別れ会「ありがとう義一さん」が1月23日大阪・リーガロイヤルホテルでありました。
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呼びかけ人は、六代桂文枝、コシノヒロコ、難波利三、大森一樹の皆さんと私で、ごく内輪のひと310人が参集してくださいました。主な方々は、眉村卓、大村崑夫妻、コシノジュンコ、西川きよし、新野新、もず唱平、安藤孝子、小曽根実、旭堂南陵、松尾貴史、ら各氏のほか放送界、経済界など故人の交際の広さが判りました。献花はトルコキキョウで、印象派画家モネの睡蓮にちなんだパステルカラーが画壇上に並びました。
 藤本統紀子さんの希望で「湿っぽくしないで」のとおり、献杯発声者文枝師匠が明るくしてくれる挨拶から始まりました。
 私は大阪文化に大きく寄与した藤本さんの功績を末永く残したいと思い、織田作之助の「善哉忌」、司馬遼太郎の「菜の花忌」、開高健の「悠悠忌」のひそみに倣いその命の記念日を提唱しました。
 ご家族が「蟻君忌(ありんこき)」と名付けられ、11月の命日には有志が集まるでしょう。
 蟻は義一の義、君を「こ」と読ますの故人がは愛した西鶴作品のなかにあるものだそうです。
 私は「背の君、夫君、父君」と見てご家族の尊敬をあらわすものとも解釈しました。
 蟻君忌が大阪に定着することを祈っています。
 会は統紀子夫人が「闘牛士」を歌い次女芽子さんがお父さんの愛唱歌「サマータイム」を義一さん作詞のママ熱唱しました。
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藤本義一さんとの日々 [文学]

故藤本義一さんとの楽しかった日々です
「非文化人の会」の仮想大会にて右は私。320仮装.jpgmikki.jpg
花野球(私たちは草野球とはいわない)「この世スネターズ」藤本オーナーと保田監督と広報成瀬。320スネ.jpg
’99正月、たてまえの会新年会(芦屋、藤本別荘)。'99山荘.jpg
「阿呆家には賢者が集う」(藤本氏命名店)の居酒屋阿呆家にて、左から2番目は難波利三氏。阿呆家320.jpg

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2010-04-13 [文学]

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大発見 [文学]

2月23日.第26回織田作之助賞の授賞式に招かれ出席しました
その席上で幻の「もう一つの織田作之助賞」があったことが知らされました
発表者は、旭堂南陵(講談師)、高橋俊郎(大阪市立中央図書館司書)、古川武史(大阪市資料調査会調査委員)の三氏でした。
昭和22年、大阪で創刊された大衆文芸誌「太陽」12月号に第1回織田賞の募集がありました
その年の1月10日に東京で客死した大阪文壇の鬼才織田作之助の業績を記念したもので、発表は翌年8月号だった。
第2回募集は同年12月号で、入選発表は昭和24年10月号だった.
太陽誌は約4年間しか続かず戦後の混乱期のこともあって、雑誌研究からももれていた。
雑誌「太陽」主催の「織田賞」は第2回までというのが通説だったが旭堂南陵氏が見出した昭和25年(1950)の2冊と高橋俊郎氏が収集した昭和24年(1949)までの主だったバックナンバーによってその全貌がわかり、第3回も募集されていたことが南陵氏の所蔵本でわかった。
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