追悼 [スポーツ]
戦後の阪神タイガース主力選手で監督だった後藤次男さんが92歳で亡くなられた。
後藤さんと初めての出会いは高知県安芸にあったキャンプ宿舎「東陽館」のロビー
で夕食後だった。
少年時代の憧れのスター選手に加えて、プロ野球初取材だったので何を話したのか覚えていないが
写真は残っている。
当時は、安藤統夫(統男)ヘッドコーチ、田淵幸一捕手、安仁屋宗八投手、遠井吾郎選手らもいた。
売出し中の掛布雅之選手(現、阪神2軍監督)は、海岸で豆球がついたバットでスイング
する写真を撮っていた。
いつしか似顔絵大会になり、選手たちが色紙を持って私の前に座った。
色紙がない遠井選手はカレンダーを破いてきて裏を差し出した。
田淵捕手は色紙に優勝と書いた旗を持った熊の絵を描いてと言った。
これをミーティング室の黒板(当時はこんなだった)に立てて士気を高めた。
後藤監督のあだ名がクマと言うのはこのとき知った。
この年、阪神は41勝80敗9分、勝率.339でリーグ最下位になった。
2年後、吉田監督の下で選手一丸となり見事日本一を勝ち取った。(^_^)(^_^)
このときのスローガン”Flesh! Fight! For the team”は私がデザインをさせていただいた。
以来38年、私はずーっと阪神タイガースのキャンプ地で選手たちを描かせていただい
ている。
後藤さんと初めての出会いは高知県安芸にあったキャンプ宿舎「東陽館」のロビー
で夕食後だった。
少年時代の憧れのスター選手に加えて、プロ野球初取材だったので何を話したのか覚えていないが
写真は残っている。
当時は、安藤統夫(統男)ヘッドコーチ、田淵幸一捕手、安仁屋宗八投手、遠井吾郎選手らもいた。
売出し中の掛布雅之選手(現、阪神2軍監督)は、海岸で豆球がついたバットでスイング
する写真を撮っていた。
いつしか似顔絵大会になり、選手たちが色紙を持って私の前に座った。
色紙がない遠井選手はカレンダーを破いてきて裏を差し出した。
田淵捕手は色紙に優勝と書いた旗を持った熊の絵を描いてと言った。
これをミーティング室の黒板(当時はこんなだった)に立てて士気を高めた。
後藤監督のあだ名がクマと言うのはこのとき知った。
この年、阪神は41勝80敗9分、勝率.339でリーグ最下位になった。
2年後、吉田監督の下で選手一丸となり見事日本一を勝ち取った。(^_^)(^_^)
このときのスローガン”Flesh! Fight! For the team”は私がデザインをさせていただいた。
以来38年、私はずーっと阪神タイガースのキャンプ地で選手たちを描かせていただい
ている。
2016-06-04 11:46
コメント(0)
コメント 0
コメントの受付は締め切りました